ランドナーが走ったPBP1200km(池田年広 2007.2.28 記) ランドナーで日本各地を走りたいと夢見たサイクリストが走破したPBP1200kmの記録。睡魔と寒さと疲労に苦しみつつ、外国人ライダー、沿道の人々と交流しながら、最初にたっぷり寝た池田さんは後半徐々に元気を取り戻しペースアップ、完走しました。寝過ごしてタイムオーバー、ヒヤッとすることもありましたが、それについてはこちらへ |
〜参加を決意するまで〜 ゆっくりしか走れない自分には別世界と思っていたPBP1200km |
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私にとっては、PBPはルートエヌの延長でした。1996年からルートエヌを走るまでは、夜通し自転車で走るなんて酔狂なことは思いもよりませんでした。しかし、これまでシクロツーリズムに憧れを持っていた自分にとってルートエヌこそが、それまで失いかけていた、走る情熱を呼び起こしてくれたのです。学生時代に十分走ることができなかった私は、いつの日か少しづつでも良いから日本各地を走りたいと考えていました。1995年からスターバイクジャパンの石丸さんが企画したルートエヌは、350km程のコースを規定時間内に走ると認定されるシステムで日本各地に設けた5ルートから始まりました。1996年からは、10ルートに拡大されサイクルスポーツ等の雑誌でも取り上げられましたのでご覧になった方も多いと思います。スターバイクジャパンが作成したパンフレットには、ブルベのことやその最高峰であるPBPの概要が紹介されていましたが、フランスで行われる1200kmの大会は、全く別世界のことで当時海外旅行すらしたことのない自分には、無縁のもののように思えました。
ルートエヌは、この規定10ルートまたは、ルールに沿った自主ルートを規定時間以内に完走すると350kmバッヂが与えられ走力認定されるシステムでした。これは、PCでコンビニのレシートを集めながら走ることが前提で、今でもBRMで一部採用されている方法です。1996年は、幸運にも10ルート全てを完走することができ、北海道から九州までルートを繋ぎながら、650Bのランドナーで数回に分けて日本を縦断しました。その後もルートエヌを毎年のように走り、夏休みを利用して約1000kmのルートを5日程かけて年に一度くらいは走るようにしていました。2002年には、掛川スタートの公式ブルベが始まり、それに参加する一方で、ルートエヌでも700Cのスポルティーフで九州から北海道まで連続で日本を縦断する2600km程の自主ルートを走り、13日かかったもののほぼノントラブルで完走しました。この頃は、カナダ在住の米満さんが1999年のPBP参加の記事をサイクルスポーツで紹介した後でしたが、長距離は走っているもののかなりゆっくりと走ることしかできない自分にはPBPは、やはり遠い存在でしかありませんでした。 2002年、2003年と公式ブルベを走りスーパーランドナーのメダルをもらえただだけでもありがたく思っていました。しかし、せっかくここまでやってきたのだから初めての海外旅行も兼ね、だめもとで良いからという思いでPBPに参加することを決意し、フランスに行くことにしたのです。2003年は公式ブルベ以外あまり走ることができず、少々焦りもありましたが、PBPに参加する前に7月の東北地方を青森から東京まで約1000kmを5日程かけて走ることができました。これもルートエヌの自主ルートでしたが、この時はまだ、梅雨明けしておらず毎日、雨の中をひたすら走りました。福島県と山形県の境にある大峠の旧道でミスコースをしたため、時間も少なくなり、自宅にたどり着いたのは、何と出勤する日の朝でした。 初めての海外旅行
PBPは,自分にとって初めての海外旅行であり、言葉や食べ物、滞在中の生活には不安が多くありました。しかし、現地を訪れてみると以外に馴染みやすく、言葉を上手く話せないこと以外それほど不便は、ありませんでした。パリでの初1日はあっという間に過ぎました。早朝の暗いうちにシャルルドゴール空港からミニバンで先発メンバーの滞在する市内のホテルに向かいました。しばらくホテルのロビーでくつろぎ明るくなってからエッフェル塔に上ったり、近くを散策しました。初めての海外は見るもの全てが珍しくはっきり言っておのぼりさん状態でした。美味しい朝食をいただき、その後、昼からは、バスで郊外のサクレーに移動し、滞在するノボテルサクレーで荷をおろしてから、早速自転車の組み立てを行いました。
ホテルでじっとしていても仕方ないのでスタート地点のサンカンタン方面に行ったところ、マクドナルドでハンバーガーにありつきしばし休息しました。フランスの町並みはとても美しく、家々や教会を眺めながら、のんびり走りました。ひとしきり走ってからホテルに帰ると外出していたメンバーも戻っており、話を聞くとスーパーマーケットを見つけ水も買うことができたとのことでした。時間的には少し遅かったもののまだ開いているかもしれないという話を真に受け、何件か店を探したものの、いずれも閉まっており、結局水にもありつけないまま、惨めな思いでホテルに戻ると他のメンバーは夕食の最中でした。この日の夕食はツアーに入っておらず私は、午後に食べたハンバーガーでこの晩は持たせました。その夜、メンバー小倉さんに水にありつけなかった話をしたところオレンジフレーバーの入った美味しいミネラルウオーターを分けていただき感激しました。 2日目は、サンカンタンにあるスタート地点のギアンクールの体育館まで行き受付と車検を行いました。何かの手違いでPBPのセットが届いていなかった自分は、加藤裕子さんの計らいで、主催者の関係の方に話を通していただき、その場でゼッケンを交付してもらいました。これで一安心でした。車検も難無く通過し、午後は、体育館周辺の出店を見たり、自由に乗ることのできるだるま自転車やアンティークなドライジーネで遊んだりしながら、メンバーと楽しいひと時を過ごしました。 |
プロローグ、 そしてついにスタート |
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夕方に近くなるとみんなでデイナーが待っています。デイナーといっても集団で食事をするのでお世辞にも豪華とは言えず社員食堂のような雰囲気で、パスタは、少々不評だったものの、さすがイベントに配慮し、パリブレストのミニがデザートに添えられていて感激でした。夕食が終わると次第にスタート時間が近づいてきます。
体育館脇のグラウンドに集合したメンバーに招集がかかり、チェックを受けてから順次スタートしてゆきます。スタート場所は、バルーンアーチがかけられていて最前列は、ロープで区切られて順番にスタートしてゆきます。ちょうど前のメンバーに続いてアーチをくぐろうとしたときロープが目の前で下ろされ、最前列に日本のメンバー数名が並びました。脇にいたギャラリーから「オー、ジャポネ」と言われ嬉しかったことを思い出します。 カウントダウンの後、8月18日、22時45分にロープが上げられいよいよスタートしました。最前列なのでさえぎるものはなく、まだ先は、長いのに先導車について結構がんばって走ってしまいました。日本のメンバーもみんながんばっています。目の前を走る内海さんにできる限りついて行こうとしましたが、あまりの速さに次第に離されて行きます。明らかにオーバーペースだったので、町中を出たところでペースを落としました。 暗闇に流れるテールランプの赤い河 道はまもなく広い丘陵地帯に出てゆきます。暗い夜の中に赤いテールランプの隊列が、まるで河のように連なり、日本では見ることのできないスケールに圧倒されていました。それでも、はじめは調子よく先行する車列を抜きながら走っていましたが、思ったより路面の抵抗が重く、アップダウンが連続する先の長いコースなのでやがて集団に合わせて走るようになりました。第一のポイントである。モンターニュ・オ・ペルシェまでは、141kmの距離ですが、とてもノンストップでは行くことはできません。途中、日本のメンバーである須藤さんが追い抜いて行ったのですが、ついてゆく余力はありませんでした。 しばらく行くと、町に入り沿道のパン屋さんが夜中にもかかわらず水を振舞ってくれていたので、水をいただいた上に甘えてトイレまで借りてしまいました。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。そのような状況に助けられながら延々と続く夜の道を赤い光りの河に加わり、更に走ると、苦しいながらも、何とか距離を稼ぐことができます。時折襲う眠気と格闘しながら、水やジュースを補給しつつ、自転車をこぎ続けていました。はじめに少々がんばりすぎたせいか次第に失速しているといった感じでした。
寒いのでゴアテックスのジャケットを着込み次のPCである80km先のヴィレン・ラ・ジュエルを目指します。このころは、もう朝の時間帯なのですが周囲はまだ、かなり暗く、いつ果てるともない闇の中を走ります。眠気をがまんしながら何とか持ちこたえている感じで苦しい時間帯でした。早く夜が明けPCにたどり着きたいと考えていましたが、共に走る参加者がいるので、道に迷う不安もほとんど無く、流れに乗って走り続けられました。おそらく他の国の参加者も同じような気持ちで走っていたのではないかと思います。やがて、空が白み始め、あたりが明るくなってくると広々とした丘陵地帯に草原が広がっているのが見えてきます。このころは、集団もだいぶ分散し、イギリスのオダックスUKのメンバー等、各国の参加者が混成で5台から10台くらいの小集団を作り、自分もその中に混ぜてもらいながら走っていました。景色も見えてきたので、少し立ち止まり写真を撮りながら小休止しました。 |
221km走ってようやくPC1、 ビレイン・ラ・ジェルに着いた |
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第1PCビレイン・ラ・ジェルには、8月19日の朝8時50分頃到着し、ブルベカードに初めてのPC通過のスタンプを押してもらい、磁気カードも通してもらうことができました。更にここでは、記念品に現地のキーホルダーまでいただき嬉しかったです。お礼を述べたあと、建物の外に出ましたが、ここまでは、本当に長く感じました。でも、これで先ずは、第一関門をクリアし、一安心といったところです。しかし日本のメンバーと会うことはできませんでした。
睡魔で意識も薄れあわや、、、 30分位休憩し、ビレイン・ラ・ジェルを出発しました。ここからもまたなだらかな丘陵地帯の道が続きます。空は晴れ渡り、昨日ほとんど寝ていないわりには、気分も良くまずまずのスタートでした。ところがしばらく走った頃、一瞬意識が飛び、気がつくと路肩の砂利の上を走る振動にはっとしました。ほんの一瞬の出来事であったと思いますが、側溝の多い日本だったら怪我をしたり、自転車を壊していたかもしれません。フランスの道は、路肩に砂利がひいてある緩衝部分が多く、今回はそれに助けられました。 この頃は、日本のメンバーと会うこともできず、海外の選手に混じって走りました。夜と違い景色が見えるのでそれだけでも嬉しいものです。草を食む牛の姿や干草のロールが、点在する風景は、北海道の美瑛や富良野を思い出します。周囲の選手もフランスはもちろんイタリア、スペイン、オランダなどのヨーロッパ諸国の選手、アメリカやカナダ、オーストラリア等の選手も目に付きます。ペースの合う選手と一緒に走っているといつの間にか距離を稼げます。この頃は、思ったより調子も悪くなく、坂でも他の国の選手と先頭交代しながら走ったりすることもできるほどでした。途中、ではやはりボランティアで食べ物や飲み物を振舞ってくれる人がいたり、街中で優雅に休憩しているグループがいたりと、フランスの景色や雰囲気を満喫することができました。 日本メンバーと再会 しばらく走ると、日本のメンバーの今富さんとも再会することもでき一緒に走ることも出来ました。途中、中年層の男性から英語で声をかけられ少し話しましたが、長続きはしません。そこで一緒にいた今富さんに話しを交代してもらいました。今富さんは、英語が堪能らしく楽しそうに話しながら走っていました。道は、なだらかな丘陵地帯と街々をつないで更に続きます。途中、子どもたちが家族と水を振舞っている一般家庭があり、ここで休むことにしました。子どもたちから水をもらい、「メルシー」とお礼を述べ記念撮影までしてもらうことが出来ました。別れを惜しみながら出発しました。
第2PCフジュールには、午後2時30分頃到着し、ブルベカードに通過のスタンプを押してもらい、磁気カードも無事通してもらえました。ボランテイアの方には感謝です。ここまでくると、「ボンジュール」、「メルシー」は、普通に出てくるようになりました。15分ほど休憩を取りフジュールを出発しました。この先も丘陵地帯が続きます。空はどこまでも青く、気温も夜の寒さを忘れるくらい高くなっていたように思います。ここからはまた、今富さんと別れ単独で走ることになりました。道はなだらかにうねりながら続きます。木陰が心地よい細い道を通りながら、フランスの田舎を堪能しながら走りました。サイクリストもそれぞれに走り、景色の中に溶け込んでいる感じです。自分もその中にいる幸せを感じつつ、次のPCのタンテニアックを目指します。 寝不足と気温上昇、 時折、共に走る海外のサイクリストから話し掛けられることもあり、PBPは、何回目かと聞かれたので1回というゼスチャーをしたところ、初参加とわかってもらえたようでした。ちなみにその人は、3回目だと言っていました。まだ、走るには余裕はあるものの気温の上昇と前日の寝不足、午前中の少しばかりの無理がたたり、だんだん足は、重くなってきます。しかし、ここは自分のペースを守り無理はせずに走りました。途中、景色のいいところがあると止まって写真を撮ったりしていましたし、途中の町では、お店に立ち寄り飲み物やお菓子、本場フランスのBICのボールペン等を買ったりもしました。 第3PCのタンテニアックには、夕方の午後5時40分ころに到着しました。ここでも無事、通過スタンプとカードを通していただいた後、日本のメンバーである山口さんと須藤さんに会うことができました。ここからは、日本のメンバーと一緒に走ることができます。これで一安心です。しかし、安心したせいか疲れが更に出てきました。何とか走ることは、できますが、眠気は、次第に増してゆきます。フランスでは、夜20:00頃まで明るいので、遅い時間でも余裕を持って走れます。 その後は、記憶は定かでないですが、日本のメンバー数名と合流して走りました。加藤孝さんや今富さんも一緒だったと思います。特に加藤孝さんは、後輪をデイスクホイルにしているので周囲から目を引き子ども達にも人気がありました。夕暮れの田舎道をみんなで次のルデアックのPCに向けて走ります。 |
寒かったルディアックの夜、 徐々に体力が落ちていく |
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スタートから約450kmの地点であるルデアックに着いたら、みんな寝る予定にしているようでした。もちろん自分もそうする予定です。しかし、走れども走れども距離があまり縮まらないように感じていました。
第4PCのルデアックには、結局夜も更けた午後11時20分頃に到着し、先に着いた日本のメンバーが迎えてくれました。その後、無事通過スタンプとカードを通していただき、本当に嬉しかったです。息も絶え絶えにお礼を述べ、ランドヌールジャポンのサポートの加藤裕子さんたちところに行くとおにぎりを分けてくださいました。荷物を受け取りこれで安心して眠れると思っていたら、サポートカーの周りは吹さらしで寒くこのまま寝たら風邪でも引きそうな感じでした。そのため、建物脇の風が防げそうな、奥まった所でシュラフカバーに包まって寝ていました。 しかし、その晩は、なかなか寝付けずようやく眠りに着いたのは、8月20日の午前2時位だったと思います。それでも、その後は、疲れもあってぐっすり眠れたのですが、目が覚めるとすでに朝の7時30分頃でメンバーは、私ともう一人、坂東さんが残っているのみでした。 8時過ぎに最後の出発となり、少々不安を抱えながら第5PCカレ・プルーゲに向かいました。はじめは、カレに向かう道がわからず、地元の人にカレ・プルーゲと聞いたのですが、カタカナ読みのフランス語ではうまく通じず、地図を示したところ、すんなり教えてもらえました。このときばかりは地図が役に立ちました。 益々険しく感じたルデアックからの道程 ルデアックから先は、道がこれまでより険しく感じられました。街を出るとけっこうな坂をあがります。途中、先に出た坂東さんに追いつきましたが、寒さで膝を痛めているようでした。先を急がせてもらい、坂を登ってゆくと、途中で少ないながら海外の選手を見つけることができました。しばらくは、一緒に走りそのおかげで道に迷うこともありませんでした。途中、直線のスピードの出る道もあり、がんばって走っていたところ、右矢印が出ていてあわてて右折などということもありました。
ここでチックを受け、休んでいるとかわいい女の子が遊んでいたので一緒に写真を撮ってもらいました、快く応じてくれたので女の子に飴をあげたところメルシーとお礼の言葉が返ってきました。こちらも嬉しい気持ちになりました。また、ここにいた人が新聞を見せてくれたので、のぞいたところそこには、石丸さんと松本さんが写っていました。そのときは、あまり考えていなかったのですが、今思うと記事を譲ってもらえばよかったと後悔しました。 このように、途中で結構ゆっくり走ってしまったことと、さらに上り坂が思ったより厳しかったこともあり、カレのPCチェックの最終時間である10時55分には、明らかに間に合わないことがわかりました。もし、カレ・プルーゲで走行中止を命じられても文句は言えないと思いつつ、そんなことになったら日本で応援してくれた人や仲間に会わす顔が無いなぁ。などと考えていました。でも、とりあえずは、行ってみないとわからないので、できるだけ先を急いで進みました。途中でタンデムのサイクリストやリカンベントなどに追いつき、しばらく一緒に走りましたがこの人たちも間に合わないけれど一生懸命走っているなと思い共に先を急ぎました。 第5PCカレ・プルーゲには結局、閉鎖時間を30分程過ぎた11時30分頃に着きました。そこには、齋藤さんがおり、話をすると少し時間を過ぎて到着したが、受け付けてくれたとのことでした。受付に行くとまだPCは閉鎖されておらず何事も無かったかのようにスタッフの方がにこやかにスタンプを押し、カードを通してくれました。これでとても安心ました。スタッフにお礼を述べた後、食堂に行くと内海さんが朝ごはんを食べている最中でした。すでにブレストを折り返しここまできているとのことで、その早さには脱帽です。一緒に写真を撮った後、内海さんと別れ、齋藤さんと一緒にブレストを目指すことにしました。 |
ペース上がらず、疲れだけが増していった ブレストへの道で出合った美しい景色 |
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途中、ガソリンスタンドで休んだり、景色の良い湖のほとりを通過したり、サイクリング気分で先を進み、管さんとも会うことができました。その先で、齋藤さんとも別々に走ることとなり、ブレストに向かいましたが、ペースはあまり上がらず、遅れ気味であることには変わりありませんでした。坂は、相変わらず続きますが、前を走るカナダの選手について一生懸命走りました。
PBPの最高地点の峠である景色の良いROKTEVEZELを越えます。ここは、それなりに登りますが、標高は400m弱でじっくり上がれば、それほど苦労せず進むことができました。頂上は、好天の中で本当に素晴らしく、どこまでも続く森の中に湖が、静かに水をたたえている景色が印象的でした。多くの国のサイクリストが休んでおり、去りがたい眺望でした。ここから坂を下っていると、山崎さんがブレストから引き返してくるところでした。折り返しのPCブレストまでは約50kmです。ROKTEVEZELからのダウンヒルは開放的で、はるか遠くまで見渡せます。 快調に坂を下り、また、アップダウンを繰り返します。畑や住宅地を通り抜け、海外のサイクリストと一緒に走っているとやがてブレストの道標が出てくるようになりました。ブレストに入ると大きな橋を渡り大西洋を望むことが出来ます。晴れ渡った空の元、青い海に白い帆を張ったヨットが何艘も浮かんでいる風景が印象的でした。少々の挫折を味わいながらも、やっとここまで来ることが出来感慨深いものがありました。しかし、ブレストのPCは更に街中の坂を上がった先にありました。 寒さと暗闇の中、 第6PCブレストに着いたのは、8月20日の午後4時40分頃で、何とか午後5時30分の閉鎖時間には間に合いサポート隊の石丸さんに出迎えていただきました。もうほとんどの人が出発していて、残っているのは先に到着していた片桐さんとサポート隊の石丸さんのみで、やがて齋藤さんも到着しそのメンバーがブレストにいるだけでした。ここからは、いよいよ折り返しです。PCからは、海は見えませんが、なかなか去ることが出来ませんでした。結局、齋藤さん、片桐さんとブレストを出たのは、夕方の18時頃でした。
途中、片桐さんは先行し、齋藤さんと第7PCカレ・プルーゲを目指しました。他国のサイクリストも多く走っています。また、途中の野道端では、仮眠を取る人の姿も見かけます。復路も、再度ROKTEVEZELを越えることになりますが、その手前で坂東さんと再会しました。しばらく一緒に走りましたが、坂東さんも先行し、齋藤さんと自分はじっくりとROKTEVEZELの坂を登りました。途中で次第に周囲は闇に包まれて行きます。きれいな夕焼けに教会の尖塔がそびえる様子が遠く望まれその美しさにしばらく見とれていました。頂上につく頃には、もう真っ暗となり時刻も21時30分を過ぎていました。その後、休憩を入れながら進み第7PCカレ・プルーゲには閉鎖時間を40分経過した21日の0時40分に着きました。ここで再び時間を過ぎましたがスタンプとカードは受付てもらうことができました。お礼を述べた後、食堂で遅い夕食のチキンライスを食べ、今後に備えました。齋藤さんからは、食欲があっていいですねと言われ、少々複雑な気持ちでした。 カレ・プルーゲからは、夜中の1時30分頃にもう少しここで休んで行くという齋藤さんと別れ1人で出発しました。ここからは道が暗いうえに狭く複雑でスピードアップは望めません。スロ−ペースで着実に次のルデアックを目指しました。しかし、寒さにまいり、次第にモチベーションが下がって行くのがわかりました。このままでは、途中で体が動かなくなるのではないかという不安がよぎります。また、あれほど走っていたサイクリストもほとんど見かけず、本当にこの道でよいのか不安も増して行きます。 |
深夜2時、一杯のコーヒーに救われた 復活のとき |
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そんな時、少しはなれたところに明かりを見つけました。時刻は深夜2時をまわっていたと記憶しています。そんな真夜中に明かりを灯し、声をかけてくれている家族がいたのです。「コーヒー、コーヒー」と自宅前の庭へ呼んでくれたのです。そこには、何人ものサイクリストが休んでおり、おいしそうにコーヒーを味わっていました。自分もお礼を述べコーヒーをいただきました。凍えそうな寒さのためモチベーションが下がっていた時なので、涙が出るくらい嬉しかったことを思い出します。その1杯のコーヒーのおかげで本当に生き返りました。何よりもこんなに寒い夜中にPBPを走るサイクリストに最高の心遣いをしてくれたこの家族には、本当にl感謝しました。いくばくかのチップを置いてゆこうとするといらないと断られたので、日本から持ってきた配布用のバンドエイドをいくつか渡すと喜んで受け取ってもらえました。やはり、PBPに参加する際は、簡単でよいから気の利いたお土産?が必要だと実感しました。これでまた走り出すことができました。もう少し居たかったのですが先を急がなくてはいけません。
また、再び暗闇の中を単独で走ることとなりましたが、先ほどよりも回復していることがわかりました。そんな時、後方から5台ほどの集団が追いついてきました。その集団について行くと、とても走りやすくスピードアップすることができました。先頭を行くキャプテンらしき人が、後方に声をかけ指示を出しています。その中には女性もいましたが、キャプテンはその人を気遣っているようにみえました。メンバーは、キャプテンの指示に「ウイ、ウイ」と答えていたのでフランスのグループだったようです。まとまって整然と走るその姿は、まさに本場のオダックスそのものでした。しばらくそのグループに引っ張ってもらい自分もその一員になったような気持ちで走らせてもらいました。1時間ほど走り、そのグループは、休憩のためか停車したので自分は先を行くことにしました。 とりあえずルデアックまでは、走り続けなくては、時間に余裕がなくPCの閉鎖時間が心配だったのです。幸い道も広くなっていたので、走りやすくルデアックまでは、何とか体力も持ちそうでした。止まると逆に寒さが身に堪えるので走り続けるしかありません。途中、焚き火を燃やしているところもあるくらいでした。やがてUZELからの坂を下るとルデアックはまもなくです。時刻も朝の5時に近くなっていましたが、周囲は真っ暗でした。坂を下っている途中、2人のサイクリストをパスしました。みんな黙々と走っています。 再び戻ってきたルデアック 第8PCのルデアックには朝5時37分頃に到着し、何とか午前6時05分の閉鎖時間には間に合いました。スタンプを押してもらい、カードも通してもらいました。ボランテイアの方々には朝早くから頭が下がります。本当は、ここで休みたかったのですが、行きで寝過ごしたこともあり、寝てしまうと次のタンテニアックの時間が厳しくなるので我慢して、一緒に居た西垣さん、澤田さんと早々にスタートしました。 幸い天気も良さそうです。しばらく一緒に走り、途中でシークレットPCも通過しました。その先で日本メンバーの坂東さんとも再会しみんなで一緒に走っていたのですが、途中で眠くなることが心配だった自分は、前を走る海外の選手についていき、他の日本メンバーより先行させてもらうことにしました。その後も思ったより眠くなることもなく、走り続けることができました。下りの早いリカンベントについてゆこうとするとあっという間に50kmを超えてしまいます。そんなことをしているうちに、第9PCタンテイニアックに21日の11時58分に到着し、スタンプとカードを処理していただきました。
気温もだいぶ上がっていました。しばらく休んでいたのですが、他のメンバーもしばらく来なかったので先に出発しました。ここでは、1時間くらいの余裕ができました。ここからは、やはり外国選手の集団にに混じって走ります。しばらくは後ろを走っていたのですが、前に出られたので先を行くと、しばらくして追いつかれました。先頭の外国選手が、日本語で「ついてもいいよ」と、話し掛けてくれたのでお礼を言いつつ後ろに着かせてもらいました。日本語で話し掛けてくれるなんて嬉しいかぎりでした。 第10PCフジュールには、21日、14時27分に着き、スタンプ押印とカードを通していただき、ここでは3時間ほど時間的余裕ができていました。しかし、ここでもあまりゆっくりはしていられません。次のPCのビレイン・ラ・ジェルでは、ぜひ行きに寄ったあのパン屋さんでまたパリブレストを買おうと決めていたのです。しかし、店が閉まっている時間ではそれもかないません。つぎのPCまでは約90kmです。私の足では5時間はかかりそうなので開いていても売り切れているかもしれません。それでもその後も、何とか順当に走ることができました。時折、道端で時折仮眠を取っている人を横目に、雄大な牧草地の中をビレイン・ラ・ジェルに向けて走ります。途中、休憩中の日本メンバー小倉さんと会ったり、デンマークチームの大集団について走ったり、PBPの楽しさも満喫しました。 |
夜間走行にも慣れた4日目 リズムで走れるようになったアップダウン |
ようやく第11PCビレイン・ラ・ジェルに着いたのは21日の19時頃でしたが、まだ明るく、ここまで寝ずに走ることができてほっとしました。スタンプ押印とカードを通していただいた後、早速例のパン屋さんまでパリブレストを買いに走りましたが、残念ながらすでに売り切れ、仕方なく変わった形のシューケーキを買うに留めました。また、ここのPCでは、小倉さんと再会がかない、一緒に夕食を食べました。ところがこのときに旺盛な食欲に任せ大量に食べたパスタとライスそして変わった形のシューケーキが胃にもたれ、とても走れる状況ではありませんでした。幸い時間は、途中のがんばりでかなり回復し、PC閉鎖まで到着時刻から5時間近くまで余裕ができていたため、思い切って仮眠所で毛布を借りて3時間程、寝ることし、ここで小倉さんとも別れました。更にありがたいことにこの仮眠所では、時間になると付き添いの子どもたちが起こしてくれるので寝過ごす心配もありませんでした。3時間過ぎると付き添いの子どもが「ミスター」と声をかけてくれました。少し眠いのですが、体調は回復しており一安心でした。周囲には、各国のサイクリストがたくさんいるので安心してスタートできます。
深夜23時頃ビレイン・ラ・ジェルのPCをスタートしました。ここからは、再び夜間走行ですが、4日目ともなれば慣れたもの?です。その後は、体調ももとに戻り、順調にペースを保てました。夜間は無理をするとつらいので、ペースを落として淡々と走るしかありません。それでもペースの合う海外選手の集団があれば、それについてゆき、ひたすら次のPC目指すことができました。相変わらずアップダウンを繰り返す道もリズムでこなすようになり、次々に現れる丘陵地帯も町並みも次第にフィナーレに近づいて行くと考えると、大切に走ろうという思いと早くこの辛さから開放されたいという思いとが交錯します。 第12PCモンターニュ・オ・ペルシェには、まだ夜明け前の8月22日の4:48に到着し、スタンプとカードをボランテイアの方にお願いし、受け付けてもらいました。ここでも朝早くから感謝です。ここでは、食堂で補給していたとき、吉田さんと再会しましたが遠くで会釈を交わしたのみで話はしませんでした。しばし休憩の後スタートしようと外に出ると相棒の自転車が立てかけてあった衝立が横倒しになっており、自転車がその下敷きになっていました。一瞬あせりましたが、サドルに傷がついただけで走るには支障なく一安心でした。 スタートを切ると次第に夜が明けてゆきます。途中、結構早いソロの海外選手がランドナーで抜いていったのでこちらも負けじと、少しあとについて走りました。上り坂で前に出ることができたのでそのままがんばっていると相手も負けじと頑張ってついて来ました。そこからは下りも結構とばし、何でここまで来てこんなことやっているんだろうと少し思考の麻痺した頭で考えてしまいます。次第にあたりも明るくなり、草原や沼の朝もやが美しくそれが日の光に照らされて極上の風景を作り上げていました。それを見ることができただけでもフランスに来てよかったと心から思いました。途中の街では、後ろから4台ほどの集団が抜いていったのでそれについてしばらく走り、スピードアップしました。 |
もうすぐゴールという喜びと これで終わりという寂しさ |
スピードアップの甲斐あって、第13PCノジョン・ルロワには、22日の朝9:00前に到着し受付に向かいました。ここでもスタンプをお願いしカードも通してもらいました。ノジョン・ルロワには、先行していた加藤さん、山口さん、須藤さん、そしてサポートの石丸さんがおり、再開できて嬉しかったです。その後、自分は食料を買いにPCの食堂に行きました。パンとバナナを買い求めて支払いを済ませた後、紙ナプキンをもらおうと再度売り場に向かったところ、店のおじさんがこちらを見てまだ支払いをしていないものと勘違いして、お金を払うよう求めてきたのです。英語は当然通じず、困り果てたのですが、先ほどお金を払った女性に助けを求めたところ説明してもらい事なきを得ました。こちらも不用意な行動をしてしまったのですが、人を疑って納得しなかったおじさんの頭の固さにも少し参りました。そうこうしているうちに時間は過ぎ、日本のメンバーもすでに姿がありませんでした。たまたま石丸さんと再会でき、須藤さんはまだ居たようだよと教えてくれました。
ベルサイユ宮殿前を通り 30分ほど休みノジョン・ルロワのPCを後にしました。ここからは、約60km程でゴールのサンカンタンです。しかし、体はだいぶ参っており特にお尻のすれと手の痺れが結構辛くなっています。しばらく走ると加藤さんに追いつくことができたので先行する山口さんのあとも追えないかと思い、最後に回せるだけ足を回して頑張ってみました。 もうすぐゴールだという喜びとこれで終わりだという寂しさが再び頭の中を巡りますが、素晴らしい天候の中最高のフィナーレを迎えられることは、やはり嬉しいことでした。また、サンカンタンの手前ではベルサイユ宮殿の前も通り、想像通りの門構えに感激しました。街中に入ると、信号が多くなかなか進めませんがもうあとわずかです。やがてサンカンタンのゴールのロータリーに到着し、ここで山口さんと一緒にゴールを切ることができました。あまりの嬉しさにツールでイノーとレモンがラルプデュエズのゴールで共に手を取り合ったあのポーズをとったところ、ギャラリーの人々も拍手で迎えてくれました。 ギアンクールの体育館でスタンプとカード処理をお願いし11:48のゴールと記録され、合計85時間03分で私のPBPは終わりました。体育館では、加藤裕子さんや泉さん達日本のメンバーが出迎えてくれました。 1225kmを4日で駆け抜ける、厳しくも贅沢な時間を過ごすことができたフランスにそして支えてくださったスタッフの方々や共に走った多くの仲間に心より感謝しています。 *なお、4年近くも前のことなので多少の記憶違いはあるかもしれませんが、その点はご容赦ください。 |