予期せぬ現地入院から自力帰還するまでの長い道のり
(鈴木@AJ宇都宮 2006.7.28 記)

スタート間もなく体調不良で何度も路上に蹲り、ついにはヴィレン・ラ・ジエルで病院へ搬送、丸二日検査と点滴で過ごして退院した。しかし、自己完結がブルベの基本、いかにしてホテルまで帰るか。1200kmは途中リタイヤとなりはしたが、帰還までにかかった一日半、そこにも多くの出会いと貴重な体験があった。これもまたPBPである。

*レポートはPBPページ作成に当たって、「治療費支払い」「帰還方法」という質問に回答する形で書かれたものです。

救急車で病院へ搬送、
気になるのは治療費
▲コースから右のクルマでヴィレン・ラ・ジェルへ、そこから救急車で病院へ送り込まれた。
ヴィレン・ラ・ジエルのベッドで「今から君を病院に連れて行くが、いいか?」と聞かれたので「コンビアン?(幾ら)」と聞いてしまった私です。「クロワルージュ(赤十字)が負担するから気にすることはない」と言われました。 病院では検査漬けと点滴で一泊した翌日夕方回診の先生に「もう、出てよいよ」と言われて、一階受付に行ったら、フランス語しか解らないので同室の人工透析していたイギリス人に辞典を借りてなんとか会話したところ、やっぱり「クロワルージュが負担する」とのこと。処方箋をもらったので、出所(^^;)後、まずオフィスツーリズムのPC借りてリタイヤの連絡してからファーマシーに行きました。胃薬57ユーロ。帰国後旅行保険申請に必要と言われ診断書取ったら、こいつはもともと胃が悪かったんだと書かれて今流行の保険金「不払い」を食らってしまいました。わざわざ8千円の診断書取ったのに。。。(T_T)
翌日無事に退院、
「でも、ここはどこ?」
▲マイヨンヌの病院では翌日夕方まで点滴と検査ですごした。
入院したところはマイヨンヌというところです。ヴィレン・ラ・ジエルの西南西30km。コースから外れていたので、心細かったです。PCヴィレン・ラ・ジュエルに自転車を置きっぱなしだったので回収の必要がありました。PCでも救急車の中でもどこへ行くのか聞いたのですが、フランス語しかわかってくれなくて、マイヨンヌがどこにあるのか理解出来ませんでした。病院から解放されたのが夕方だったので、夜の過ごし方を考えなきゃと思っていましたが、ひとまずオフィスツーリズムを目指し歩き始めました。交差点で目があった自動車の奥さんに「マダーム、オフィスツーリズムどこ?」と尋ねたら、手っ取り早く載せてってくれました。オフィスツーリズムでPCを借り家族にWEBメール送付。どんな経緯か日本語が表示できる環境でありがたかった。むろん、日本語IMEなど追加するわけにいかず、発信文はローマ字でしたが。。。フランス語キーボードはazerty配列で@マークが出せずに難儀しました。

カウンターで現在位置と交通手段を確認。「駅どこ?」と聞いたのが悪かったか、駅は分かったのですが鉄道は廃線(地図にはある)、営業している駅舎でも今日のバスは終わったことが分かりました。インターマルシェ(スーパー)で腹ごしらえして、ぶらぶらしながら安宿を物色したりしてましたが、あたってくだけろで町から北東方面に向かう広めの道端で、MAPの裏にヴィレン・ラ・ジエルと書いて座ってました。車通りは多いけど15分ほど待ったらトヨタのランクルが止まりました。ドイツの人で夫を車でおいかけてフルサポートしているとのこと。サポートはコース上を走れず、たまたまマイヨンヌを経由して私をひろってくれたわけです。この婦人はPBP公式記録ビデオの冒頭で、旦那をマッサージしている奥さんです。

ヴィレン・ラ・ジェルのコントロールで救急車に乗せられた鈴木さんはマイヨンヌの病院に収容された。マイヨンヌから40km程で次のコントロール、フジュールであるが、コースはマイヨンヌのはるか北を通っていたのだ。(マップ作成:オダックス埼玉)

ヴィレン・ラ・ジエルに着き、そこらを見物。速い人たちがもう到着してきています。民家で電話を借していただきリタイヤを伝え、各国サポートの人と話をしていると、車に載せてくれた人の旦那が到着。出発を見送り、奥さんも出発。PCまでとの依頼だったし、家財一式、犬まで積んだ車に自転車込みで載せてもらえそうもなかったこと、翌日木曜日一日あればなんとかなると、後に残されることにしました。PCの食事を買いましたが、何か食べなきゃと思いつつ不味いミネストローネはともかく、パスタが食べられず残してしまいました。夜になりちょっと寒さが応えたので仮眠所(小学校の教室にマットが並べられて毛布付き、指定時間に起こしてくれる)を利用。 翌朝木曜日よっぽど明るくなってから起きて、パンク修理。

▲ラヒュットで2時間間ってようやく来たローカル線でルマンへ、そこでTGVに乗り替え。
のろのろと自転車で出発。途中レントゲンの筒を落とし、沿道の人に拾って貰ったりして昼過ぎ鉄道路線踏切へ。ラヒュット。リタイヤする前に胃の痛みに耐えかねて、何回目かに道ばたで転がっていたら、親切なおじさんがコーヒー呑め呑めと勧めてくれたのを頂き、胃が音を上げた場所でもあります。幸か不幸か、そのおじさんと再会。家に招かれ一族のパティシエが焼いたガトーを貰いました。

▲車掌のはからいでTGV車内でも自転車はそのまま積み込んだ。
コース上の踏切のすぐ北側がラヒュット駅。ローカル線で、数本の列車の通過を見送り結局2時間待ちました。自転車を持ち込んだのを車掌氏に見られて、運転台に連れて行かれました。ルマンではそのジーゼルカーの入線したホームの反対側にTGVが着き、そちらに乗り換え。自転車の持ち込みには制限があるようでしたが車掌氏の目配せで、はだかのまま持ち込むことが出来ました。残念ながら検札はあり、約50?ユーロほどかかりました。パリ南郊のマッシーからサクレイ(宿泊先のある街)はツール2004コースの逆走。まだ都会のマッシーから郊外へ小さな町を綴るコースです。お葬式を見たり、ぺだんくをしているのを見たり、サクレイの手前では20日もツーリングしているオーストラリア人女性と行き会ったり。

宿舎まで後一息というところで、サクレイの中央広場でフランス国営TVのドラマ、「ローマのエロイーズ(女性刑事?の名前)」のロケに行き会い野次馬をしていたら、ディレクター(これも女性)に「そこの自転車の人!ちょっと来て」と命令されて、大女優クリスティンティッティ女史(地元のティーンの弁)と競演(通行人Aですが)することに。3テイクくらいであっけなく完了。記念撮影いるかといわれて、礼儀上是非と写真に収まる埃まみれの自転車おやぢ。 スタート前の日曜日には休みで利用できなかったサクレイの食料品店で食べ物を仕入れホテルへ到着しました。

退院後マイヨンヌからビレン・ラ・ジェルまで電車はなく、参加者の個人サポートカーに運良く拾われ、その後はラヒュットからマッシーまで電車、そこから自走してホテルのあるサクレイにたどり着いた。マイヨンヌからサクレイまで丸一日半かかった。ちなみに、マイヨンヌはサポートカーの走行ルートに指定されていたことが鈴木さんにとってはラッキーだった。PBPはリタイヤしたら終わりではない。その後、自力で戻らなければならない。1200km走るのとは違った知恵と体力がいるのだ。(マップ作成:オダックス埼玉)

▲ようやく戻ってきたホテルのあるサクレイではなんとTVドラマにエキストラ出演。
途中から何が目的なのかわからなくなりましたが、早々と二日目の午後にリタイヤしてしまうというだらしなさのせいで、充分な時間があったため、ホテルに戻るのは、どのような手段でもなんとかなるとは思っていました。PBPから一旦離れてしまったのも、コースで得られる便宜(サポート車への添乗はたまた自走)の限られた選択肢に捕らわれなかったと思います。公共交通機関の利用が困難なマイヨンヌ〜ヴィレン・ラ・ジエル間で、自転車が無かったのが致命的でしたが、参加者の家族の車に乗り合わせられたというのがラッキーでした。これがなきゃ、ホテル帰還は翌日になってました。

体調崩した5つの原因
日本出国前から始まっていた
出国ぎりぎりまで行けるかどうかの綱渡り。妻にも「妻子を置いて遊びに行くだなんて、よよよ(嘘泣き)。」といじめられ、フライト当日の午後に梱包している始末。慌てすぎて、成田まで同乗させてくれる斉藤さんが来る時間を気にしながら、ラックに掛けてある自転車の下で、段ボール箱に入れようと頭を上げたら、チェーンリングでざっくり頭を切った程動揺してました。

敗因その1 後ろ髪をひかれまくりで出発してきたので、パリに着いただけでもう、うれしくて、嬉しくて。喜びすぎて土日の間に数十キロも自転車でうろちょろしてた。

敗因その2 若いときの少ない経験から、時差は寝ないで直すという体力勝負だった。

敗因その3 うれしがって、スタート当日月曜日の午前中にあったプロローグに出たのも裏目。 何を食べてもおいしくて、カーボロードだと身体を偽って食いまくっていた。

敗因その4 もともと、十二指腸潰瘍+胃炎で長年通院していたにもかかわらず、環境の変化、無理・疲労、暴食が祟って、人権体育館での出発待ちの時点で、南アの人やイタリアの人に「sava? 如何っ?」ときかれて「スタマクエク:胃が痛い」と言っている状態でした。

敗因その5 おまけに、スタート前のカーボパーティに徒歩で行ったおかげで、再入場に時間を取られることなく比較的早いグループでスタートできたものの、夜道のミスコースの不安から明るくなるまでは、とオーバーペースで走ってました。

その結果 未明から疲労と胃痛で何度も吐き、道ばたで転がっていていろんな人に声を掛けられましたが(感謝)、昼の暑さと再三のパンクに引導を渡されました。入院して2日の絶食と点滴で収まりました。喉の渇きや胃の痛みは相変わらずでしたが。

考えたくはなくても
帰還手段検討は必要
現地ではこのリタイヤー鈴木でさえ参加することに興奮していて、走る前からリタイヤのことを考える不吉をきらってか、「リタイヤしたときはそのときさっ」という雰囲気で、互いにそれを話題にすることがありませんでした。それ以前に、未知の1200kmの準備(地図読み、自転車整備、携行品検討、補給計画他)で忙しかったというのが、正確な表現かな。

実際してみて(^_^;)、

  1. そうならないために事例を研究して対策を講じておくこと。
    リタイヤなんて人聞きの悪い(^_^;)ことでもあり(私だって、こんなにカミングアウトしてても、やっぱりリタイヤしたこと、それも走ったうちにはいらない距離でそうなってしまったことについては、一人夜枕を濡らしつつ臍を噛む思いです)、考えたくないでしょうが大切だと感じます。
  2. リタイヤしちゃったらしょうがないので、無事帰還する手段を検討しておくこと。
    あくまで自力帰還が基本なので、  1)帰還の手法  2)コミュニケーション手段を検討しておくと、その当座役立つと思います。コース上では参加者やスタッフの援助が受けられます。先方の厚意によってサポート車に便乗させていただくことも良し、公共交通機関への便宜や情報をもらったりもできます。大切なのはコミニュケーションですが、PCだったら英語が通じます。問題は、私のケースのように、コースを30kmも外れた町の病院に搬送されると、英語は通じません(;_;)。同室の英国人患者に、担当医回診のときに「ちょっとよくなりました」という表現をするにはどう言ったらいいのか尋ねたりしましたが、通訳がついてまわるわけでもなく、胃カメラ呑まされる手順もすべて仏語、嘔吐後食道が焼ける思いを伝えようとしても「Eau!(水〜)」というのが精一杯で「今呑んじゃだめ、また吐くから(と言っているらしい)」と言われて思わず涙ぐむような辛い(^_^;) 体験でした。

おかげで、言葉の重要性が、今なら、よくわかります(^_^;)。観光ガイドや旅行保険のしおりに、旅行中に必要な英語表現なんてのがありますが、「PBPカスタマイズ版、リタイヤ時に便利な表現集。仏日対訳+英語」が作れそうです。リタイヤ時だけでなく、集団走行時にさんざん聞いた「あたんしょーん(気をつけろ!)」とか、自転車各部の名称やら、日常生活(食う、寝る、出す)関連の言葉も集めておけば鉄壁?ですね。

*最後の項のみ2003年PBP終了後に当時の参加者MLに投稿されたものを転載しました。

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